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アーニーパイル国際劇場・・・ (奇跡と呼ばれた一マイル-沖縄国際通り物語より) 沖縄従軍記者アーニーパイル かくして、高良の映画館は沖縄民政府から正式に認知された。 いつ頃から映画館の建設が始まり、いつ完成したのか、資料らしきものは残っていない。高良も川平もそれについての正確な記憶はないようだった。わずかに、「うるま新報」の記事のから建設途中の時期をうかがい知ることができる。1947年(昭和22年)7月25日付けの「脚本募集・賑う劇界」という記事である。 演劇の衰微沈滞は一般識者の憂えるところであるが、結局は脚本の貧困からきている。沖縄民政府文化部では、賞金付きで新しい脚本を募集することになった。題材は自由だが、再建沖縄を表現した民主主義的なもので、軍国主義的なもの、敵国人権の不平等・卑猥なものは不可としている。1等賞金1000円、2等500円、3等は150円は当時としては高額であった。 また3月に那覇市内に建設された沖縄芝居の常設館・中央劇場でも脚本を募集(1等500円也)していた。記事のなかでふれている次の部分が参考になる。「那覇市には仲井間元楷氏らの中央劇場の外に高良肇氏も目下建設中であるが・・・(後略)」「高良肇」は高良一のことである。これから見ると。1947(昭和22)年7月には映画館は建設中だということになる。 ちなみに民政府文化部が募集した演劇用脚本には42点が応募、1等には該当作品がなく、2等に大城立祐の「明雲」が入選している。(入選を伝える当時の「うるま新報」には「暗雲」と出ているが最近出版された戯曲集の記録では「明雲」になっている。本人に確認したところ、後者が正しいということである)。 大城はこの20年後(1967年)に「カクテルパーティー」で沖縄出身者として初めて芥川賞を受賞するが、24歳の記念すべき文壇デビュー作であった。完成した映画館はテント葺き、椅子は丸太の杭に板を渡したものだった。当時としては、これでも立派な建物だった。 さて、次は映画館の名前をどうするかだ。高良は関係者の意見も聞いて、「アーニーパイル国際劇場」と名付けた。 アーニーパイルは伊江島で最期を遂げたアメリカの従軍記者である。アメリカ兵たちに圧倒的に人気があった。終戦直後は一種のブームになっていた。「きっとアメリカ側の受けも良いに違いない」高良の深慮遠謀だった。 「国際劇場」という名の劇場は、戦前(1939年建設)から東京の浅草に同名のものがあった。鉄筋コンクリート4階建て、客席数3600の当時東洋一の規模を誇った大劇場で、松竹少女歌劇団(SKD)の本拠地であった。東京空襲で内部を焼失、戦後再開場し、1982年(昭和57)年4月に閉館した。 また国際劇場と並んで、東京の劇場として双璧だった東京宝塚劇場は戦後(1945年)、米軍に接収され「アーニーパイル劇場」と名前を変えて進駐軍専用の劇場になっていた。淡谷のり子、美空ひばり、高峰秀子らも舞台に立ったが、日本人は入ることができなかった。 1953年(昭和28)年、東宝は日本政府を相手取って返還訴訟を起こした。2年後の1月に接収が解除され、4月に元の東京宝塚劇場に戻った。 高良がどちらも知っていたかどうか分からないが、戦後、期せずして東京と沖縄に同じ「アーニーパイル」を冠した劇場名が登場した訳である。 国際劇場は戦後からの有名な劇場だったので名前くらいは沖縄にも伝わっていたかもしれない。 しかしアーニーパイル劇場の場合は戦後まもない頃の情報がすぐに沖縄に伝わったと思えないから、本当に偶然の一致だったのであろう。余談だが、アーニーパイルは沖縄戦のとき、米海兵第一師団とともに1945(昭和20)年4月1日、読谷村に上陸した。ヒューマニズムに徹した彼の記事は、本国アメリカの読者の目をさらった。 アーニーパイルの記事の特徴は、将軍や将校たちの動静には興味を示さず、名もない兵隊たちを好んで取り上げたことである。故国を遠く離れ、肉親や妻子と別れれて戦場の凄惨さにあえぐ無名戦士たちの心のなかを、彼らに代わって書き綴ったのだった。人間的興味のあるニュースを書く最もすぐれた記者であった、と新聞史家から評価されている。 米軍の沖縄本島上陸第一歩の模様をアーニーパイルは次のように書いている。「みんなは上陸するときは雨あられと降る弾丸、砂をハネとばす追撃砲弾や野砲のうなりの中に突っ込んでいくものだとの期待があった。だが前方からは一発の弾丸も飛んで来ない。ウソではないだろうか。そんなこともないはずだが」 「いまだかって私は沖縄のような上陸作戦を見たことがなかった。隊には一人の戦死者もなく、一人の負傷者もなかった。衛生兵たちは包帯や医薬品、担架などの荷物のそばになすこともなく坐っていた。焼かれた車両は1台もなかった。また海岸にも破壊されて横倒れになっている船一隻とてなかった。上陸作戦につきものの大量殺りくの場面は、それはみごとといっていいほどなかった」(「那覇市史・戦時記録」) かってヨーロッパやアフリカ、太平洋各地の戦線にも参加、ノルマンディー作戦では負傷したことのあるアーニーパイルも、沖縄での「無血上陸」にはあっけにとられるものだったらしい。
「実際に見た沖縄は、アメリカの大抵の土地とさして変わりなかった。海兵隊にとってはここ三年見てきたどこよりもアメリカに似ていた。気候も熱帯というよりも温帯的で、植物もそうだった。海岸にはたぶんパンダナスの茂みと思われる熱帯植物もあるにはあるが、枝を水平に張っている樅の類が豊富に生えている。私のいた隊が最初の2日間に通過した村はきれいに耕されていた。海岸から小さな段々畠がなだらかに延びているところなどインディアナ州の、ものみなが乾燥しはじめて褐色を帯びる晩夏のころをまざまざと思わせた。」 (アーニーパイル「最後の章」)4月16日、アーニーパイルは沖縄での最後の取材をするために、第77師団とともに伊江島に上陸した。 伊江島は離島にあって最も熾烈な戦闘を展開した所である。 周囲22キロの小さな島での戦闘は、後に「沖縄本島の規模を縮小したようなもの」といわれた。2日後の18日、アーニーパイルは連隊の指揮官とジープに乗って前線に向かった。 村はずれにさしかかったとき、道路脇の丘に隠れていた日本兵から機関銃の狙撃を受けた。ふたりはジープから転がり出て、傍らの溝にうつぶせになった。 やがて、辺りが静かになったので、様子を見ようとパイルが頭をあげたときである。再び銃弾を受けた。銃弾は鉄かぶとの縁の下から、パイルの左こめかみに命中した。 従軍記者アーニーパイルは、こうして戦場で命を失った。44歳だった。 「同僚ならびに兵隊からも将軍からもひとしく愛された従軍記者アーニーパイルは、今朝日本軍の機関銃弾に左こめかみを貫かれ、ついに戦死した。アフリカから沖縄にいたるまでのあらゆる戦線から報道を書き送った有名な寄稿家の死は午前10時15分、司令部から約一哩前方であった。(琉球諸島、伊江島司令部にて)」(「ウルマ新報」)4月18日発のAP電である。 アーニーパイルが犠牲になった3日後、伊江島は完全に米軍の手に落ちた。 その後、彼が戦死した場所に墓標が建てられ、沖縄戦終了後の7月1日、米軍によって除幕式が行われた。 「第77歩兵師団はこの地で、戦友アーニーパイルを1945年4月18日に失う」碑には、そう記されている。 もしアーニーパイルが生き延びて沖縄戦終結にまで見届けていたなら「ありたっけの地獄を一カ所にまとめたような戦争」と言われ、大勢の住民を巻き込んだ沖縄戦をどう伝えたのだろうか。興味のあるところである。
著者名...大濱 聡出版社名...ゆい出版 問合わせ先...電話 098-973-9872 住所...〒904-2245沖縄県具志川市字赤道713-2 |
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